許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

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暮しぶりが伺える

日本語には同音異義語が多く、「伺う」と「窺う」もその一例です。「伺う」は「『問う』『聞く』『訪れる』の謙称」(新小辞林第二版)、「窺う」は「1 のぞき見する。(相手の)動静を探る。2 ねらう」(同)の意ですが、「窺う」が常用漢字表にないため、「伺う」で代用するケースが目につきます。
しかし「伺う」と「窺う」は異なることばです。「暮しぶりが垣間見える」といった内容を表したいのなら「伺う」は使えません。「伺える」は「問う/聞く/訪れることができる」だからです。常用漢字だけを使う必要がある場合には、「うかがえる」とかな書きにすべきです。
「窺う」でも「うかがう」でもなく、意味の異なる「伺う」を使うのはなぜでしょうか。
近年、文章は手書きでなく機械で入力するものになってきました。指先一つで変換できる漢字はかなりの数に上ります。しかも昔は単文節でなければ変換できなかったのが、今では複数の文がいちどキーを押すだけで漢字仮名まじり文になります。ワードプロセッサが普及してきた当初は誤変換に注意する意識が広く見られましたが、携帯電話からウェブサイトまで推敲せずに送信またはアップロードすることがふつうになった現代では、誤変換は読むほうで文脈から判断して訂正するもののようです。
誤変換に加え、「出来る」「様だ」「位」などかな書きがふさわしいやまとことばも機械的に漢字にされることが多くなりました。日本語は、漢字・かな・カナを適切に使うことで豊かな表現が可能な言語です。変換を確定させる前に、美しい日本語について考えてみてはいかがでしょうか。