許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

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正論

SNSが発達し、TV番組に視聴者のツイートが表示されるようになりました。
世界的にポピュリズムが擡頭するなか、「自国第一主義は正論」とのツイートをよくみかけます。公共の電波にのせるからには、稀少な意見ではなく、同様の投稿が一定数存在すると思われます。

そこで気になるのが、「正論」とは「道理の正しい議論」(広辞苑第二版補訂版)の意だということです。
「道理」とは「1 物事のそうあるべき理義。すじみち。ことわり。2 人の行うべき正しい道。道義〈後略〉」(同)です。「理義」は「道理と正義と」(同)。
つまり「正論」は、理想や正義や「人の行うべき正しい道」に適う議論であって、悲しいかな、「本音」よりも「建前」である場合が多数を占めます。
今や、自国の利益のためなら国際協調に背を向けるのもやむなし、との姿勢が「人の行うべき正しい道」なのでしょうか。
小説「蜘蛛の糸」や三尺箸の説話など、「自分さえよければ」の「本音」よりも、「建前」ととらえがちな利他主義こそが幸福をもたらすと教えられてきたのですが。近江商人の「三方よし」が世間の話題になったのも、何十年も昔のことではなかったような。








昨年の米国大統領選挙中、ヒラリー・クリントン候補が、ドナルド・トランプ候補の支持者の半数は人種差別主義者などの「嘆かわしい(deplorable)人々」だと発言して激しい反撥を買いました。落選の一因になったともいわれるこの発言は、米国市民の大半にとって人権の尊重は「常識」だと、naiveにも考えてしまったために為されたのかもしれません。
社会に弱者を支援する義務などない。自己責任でやれ。
しばらく前ならとても公言できなかった「本音」の許容度が、かなり高まっているようです。
セイフティネットのない社会は不安定化し、安全、経済、公衆衛生、社会保障制度等々さまざまな面でリスクが増大する。要支援者を納税者に変えるための資金は費用でなく投資。全員が長い箸で卓の反対側の人に食べさせればみなが幸福。道理を説いても「建前」とはねつけられるでしょうか。
人権や博愛の意義が共有されなくなりつつある現在、十年前、二十年前の「良識」を「常識」とおもいこまず、「本音第一主義者」に届くことばを探す必要がありそうです。