許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

価格破壊

介護離職した友人が、すきま時間に仕事ができればとクラウドソーシングのライター募集要項を見てみたのですが、あまりにも安い報酬(1文字1円だったかな)に応募はやめたそうです。
ふと、とある記事提供業者の記事をおもいだしました。
「光の色は波長の長さで決まるのだが、赤に近づくほど波長が短く、青色に近づくほど長くなる。この青い光が、波長が長いせいであちこちにぶつかって乱反射し」
光の波長については中学生で習うのでは……。この業者がクラウドソーシングを利用していたかどうかは存じませんが、高い原稿料は払わなかったでしょうね。
*念のため附記。波長が短いのは青で長いのは赤です。
とはいえ、雑誌なりwebサイトなりに記事を載せるのは読者に読んでもらうためです。音楽でもまんがでも無料で視聴できる時代、お金を払う価値を記事に認める読者が大多数だとは思えません。それ自体が売りものにならないのなら、記事を安く買えるに越したことはないので、安価で記事を提供する業者を選ぶでしょう。そうしたクライアントが多ければ相場は下がり、ライターに支払う金額も減ってゆくわけです。
たしかに、有料でも読みたいような記事が昨今どれほどあるかというのは大きな問題です。ただし、1文字1円では調査も取材もできないのです。


2014年の12月31日23時59分にリセットしたカウンターは、2015年の12月31日23時59分には245,099件でした。ほとんど更新していないのにご覧いただきありがとうございます。近年すっかり狼少年ですが、来年こそは更新頻度向上を、はい、ぜひ。
よいお年をお迎えください。

ウォーミングアップ/ウォームアップ

「試合開始前の練習運動。予備運動。ウォーム-アップ」(広辞苑第二版補訂版)の意の「ウォーミングアップ」、「ウォームアップ」の表記も許容のようですが、英語ではどちらが使われるのでしょう。
Webster's Ninth New Collegiate Dictionary1986年版によると下記のとおりです。
warm-up n 1:the act or an instance of warming up;also:a preparatory activity or procedure〈後略〉
warm up vi 1:to engage in exercise or practice esp. before entering a game or contest;broadly:to get ready〈後略〉
「warming-up」の項はありません。「warm-up」の説明にある「warming up」は自動詞「warm up」の動名詞であり、名詞としては「warm-up」なのですね。


上記の辞書は発行年が古いので(広辞苑第二版補訂版は昭和51年第一刷)、最新版の国語辞書と英和辞書をいくつかめくってみました。
国語辞書では、「ウォーミングアップ」を主としながらも「ウォームアップ」の項も立てるか「ウォーミングアップ」の説明のなかに「ウォームアップ」表記もあるものが大半です。
英和辞書ではほとんどに「warming-up」の項はなく、いくつかの辞書で「warm-up」の形容詞としているだけでした。それらも名詞は「warm-up」のみです。2冊だけ見た英英辞書は「warming-up」なし。
日本語(外来語)として「ウォームアップ」を用いることに問題はなさそうですから、とりたてて「ウォーミングアップ」にこだわる理由がなければ、「ウォームアップ」でよいのではないでしょうか。文字数も2文字減らせますし。

を/に注視/注目する

「注視」は「視力を集中して見つめること。注目」(広辞苑第二版補訂版)。
「注目」は「一 目をそそぐこと。みつめること。また、注意を向けること。関心を寄せること〈後略〉」(同)。
どちらも「みつめる」という意味をもち、文脈によっては置き換えが可能です。


ただし、「注視」の「視」は、「一 ミる イ 注意して見る。気をつけて見る。よく見る〈後略〉」(三省堂漢和辞典第二版)です。「見」(「一 ミる イ 目でみる〈後略〉」〈同〉)とは異なります。「注視」では、「注意深く視る」という行為自体に主眼が置かれます。
一方、「注目」は「目を注ぐ」です。みつめる行為のみならず「関心を寄せる」意思も想起されます。このため、「注目に値する」とはいえても、「注視に値する」とはいいません。



ところで、goo辞書:デジタル大辞泉に「注目」の用例として「目の前の舞台を―する」とありました。
疑問に感じてwebで“を注目”と“に注目”を検索してみました。「Google検索」で多くヒットするかどうかは信頼に足る証拠にはなりませんが、少なくとも“に注目”が圧倒的多数派だったことは確かです。しかも“を注目”の検索結果には「○○を『注目の△△』として」といった文章もたくさん含まれます。
goo辞書:類語例解辞典の対比表でも、「に注目する」は使うが「を注目する」は使わないとしています。
やはり、「○○に目を注ぐ」であるからには「○○に注目する」が自然でしょう。同じく、「○○を注意深く視る」なので「○○を注視する」がしっくりきます。


助詞は軽視されがちです。しかし、助詞を注意深く扱った文章は、筆者の国語力の水準を証するものとみてもらえることがあります。逆もまた然りです。

コピー&ペースト

この1年(1月から12月まで)巷間の話題に上ってきた「STAP細胞」は、「なかった」との結論に至ったようですね。じっくりおっかけてたわけではまったくなくてTVニュース等で見聞きした程度ながら、理研がもちあげネイチャーが認めた研究が捏造と判定されたことに、門外漢としては驚いております。
そうなのか、研究者の世界にまでコピペが蔓延してるのか。
何年か前に読書感想文コピペ元ネタサイトが話題になって、夏休みは読書感想文なんか書くよりもっと有意義に使ってほしいってのがサイト作成の動機だったと記憶してますが、読書感想文てのは実は有意義で、論理的な文章の入門篇だと思うのね。本を読んで理解して、それを基に自分なりの感想をもち、文章を筋道の通るように組み立てる。そんな訓練がこどものうちにできてないと、大学生になってもコピペでないとレポートが書けなくなってしまう。
研究者になってもコピペでないと論文が書けず、ライターになってもコピペでないと原稿が書けない……。
もちろんすべてを0から創造することはできないのだけど、多様な情報を読みこんで咀嚼し、身につけた知識を基礎に独自の発想で論を立て、持論を補強するために参考文献を引用するのと、ぐぐってヒットしたサイトのうち上位に表示されたいくつかからコピペした文章をつぎあわせるのとは、質が異なる。
持ち歩ける機械に図書館の蔵書が詰まってる時代、webは情報蒐集の手段として大変有用とはいえ、情報をコピーすることと理解することは同じじゃない。コピーした情報を並べるだけでは論文にも原稿にもならないのでして。
細胞を刺戟するだけで幹細胞ができたらスゴイ!て発想を、破綻のない理論に構築し、他の研究者が再現可能な実験手法を確立して検証する。それにはやっぱり、論理的思考ってのが不可欠でしょう。論理的に考えてさえいれば、マスコミ受けのよさそうな若手研究者を宣伝する前に、研究者としての資質をチェックしてたはずだがな、と、研究組織に注ぎこまれた税金を負担する側は訝しむ。
論理的思考を育むため、コピペしないで文章を書く練習をおすすめします。



2013年の12月31日23時59分にリセットしたカウンターは、2014年の12月31日23時59分には213,032件でした。御高覧を賜りありがとうございます。2015年は更新頻度を増やす(少なくとも2014年よりは!)所存ですので、また覗いていただければ幸いです。
新年がよい年となりますよう。

べき/べし(べき止め)

「本田の無回転シュートを期待するには、望むべくボールではないかもしれない」(4月23日付日刊スポーツ)
上記は、2014年FIFA W杯公式球についての新聞記事から(書きかけて忘れていました)。
「べくもない」は「べくもあらず」の「あらず」を「ない」に置き換えた連語です。「べくもあらず」は「《助動詞「べし」の打消し「べくあらず」に助詞「も」を挿入して強調したもの》1 …はずがない。…しそうにない〈中略〉2 …できそうもない」(goo辞書:デジタル大辞泉)。
つまり「望むべくもない」は「望めそうにない」を意味します。「このボールでは本田の無回転シュートを望むべくもない」としたかったのでしょうか。しかしそれでは、公式球を批判する印象が強く、原文とはいささかニュアンスが異なります。
あるいは「望むべきボール」の誤植? 「べし」の連体形は「べき」で、「べく」は連用形、「ボール」は体言ですから。
「べし」は「1 当然の意を表す。…して当然だ。…のはずだ〈中略〉2 適当・妥当の意を表す。…するのが適当だ。…するのがよい〈中略〉3 可能の意を表す。…できるはずだ。…できるだろう〈中略〉4 (終止形で)勧誘・命令の意を表す。…してはどうか。…せよ〈中略〉5 義務の意を表す。…しなければならない〈後略〉」(同)です。
「望んで当然のボール」「望むのが適当なボール」「望めるはずのボール」「望んでほしいボール」「望まなければならないボール」……どれも意味が通りません。「望むべきボール」でもなさそうです。
前後を読むと「(速いパスに適したものであり)回転をかけないシュートには向かないボールかもしれない」との文意なので、正しくは「望ましいボールではないかもしれない」とすべきです。


ところで、前述のとおり、「べき」は連体形です。文末に来る場合、助動詞「である」「だ」「です」をとる「○○べきだ」などの形がふつうです。助動詞を付けないなら終止形「べし」を用いて「○○べし」となるはずですが、「○○べき」といいきる形がめだちます。文を連体形で終わらせて余韻をもたせる「連体止め」という修辞法もあるものの、とりたてて効果をねらう必要もない箇所に使われていることがほとんどです。
1998年の第28回年金審議会全員懇談会議事録に下記の発言が記録されていました。
「『べき』で文章を止めて、べきであるか、べきでないか、わからない文章を並べる。これは現代の、若い世代の共通の文体です。今お話のありました『意見』で止める体言止めも現代の若い世代の文体です。これは日本語の作文教育の成果です。『べき』止めは多分『べきである』と読むようです。『意見』というのは『意見があった』という趣旨のようです」
16年後の今、仕事でお役所の文書を読むことが多いせいか、「べき止め」には頻繁にお目にかかります。すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。




祝「怨み屋本舗EVIL HEART」連載開始の追記。
怨み屋姐さんの「しかるべく!」は、「しかるべく対処します」等の略と思われ(「しかり」連体形+「べし」連用形の副詞的用法)、話しことばとしては許容範囲です。
ただ、「evil」のカナ表記は「イーヴル」だろうやっぱ。「オースティン・パワーズ」のDr. Evilが「ドクター・エヴィル」じゃかっこつかん。

体たらくぶり、体たらくな

昨今、TVや新聞などで「体たらくぶり」「体たらくな○○」といった表現をみかけることがあります。さて、この「体たらく」とはどんな意味でしょうか。


まず「体」は、「1 外から見た物事のありさま。ようす」(goo辞書:デジタル大辞泉)です。「たらく」は、断定の助動詞「たり」(文語。口語の「だ」「である」にあたります)に接尾語「く」がついて名詞化された形です。文字どおりには「ありさまであること」で、「ありさま」を強調した表現といえます。
ありさま」を強調した「体たらく」は「ざま」といいかえられます。「なんという体たらくだ」=「なんというざまだ」ですね。逆にいえば、「ざま」といいかえられない「体たらく」は誤用です。「ざまぶり」では意味を成しません。
つまり「体たらく」とは、「ありさま。ようす。ざま。現在では、ののしったり自嘲をこめたりして、好ましくない状態にいう」(同)のです。
上記の「ありさま〈中略〉好ましくない状態にいう」は、「体たらく」は「好ましくない状態」という意味である、とは異なります。「ありさま」の意で、現在では好ましくない状態の場合に用いる、という説明です。「体たらく」はあくまでも「ありさま。ようす」という意味です。


「好ましくない状態」というイメージだけで「体たらく」を使ってしまうと「体たらくぶり」のような誤用を招きます。ことばは定義をきちんと理解して用いたいものです。

もしも調査報道が消えたなら

先月、朝日新聞社社長がふたつの誤報について謝罪文を発表。もちろん誤報自体イカン(重大問題についての記事だっただけになおさら)のですが、それとは別に、「あ〜あやっちゃったよ……」と嘆息しましたことよ。
長年誤りを指摘されてきた「朝日新聞の」記事がやっぱり誤報だったなんて、「偏向した『マスゴミ』は信用できない」の主張に「揺るがぬ証拠」を与えたわけですからね。
いや、あたくしは、中学生時分からの朝日嫌い、かといって読売・産経の勧誘もお断りの日刊スポーツ定期購読者なので、サヨクもウヨクもどーでもいーんです。けど、調査報道がなくなったらたいへん。


毎日仕事をして家事をして本を読む時間もそんなにとれないとなると、プロが取材し報道してくれるTVや新聞は、社会についての知識(情報にとどまらず)を簡便に得るのに重宝な手段です。まぁ媒体はwebって人もいるでしょうが、記事は報道機関が制作してる。ポータルサイトとかはキュレーター(学芸員じゃなくてweb用語の)であって、もともとの記事がなければwebでニュースを読めないのよ。
でもいまや旧来のTV局や新聞社の経営手法はぐらついてて、今後も持続可能なビジネスモデルは(米国等でいろいろ意欲的な試みがなされていると聞くけれども)確立してない。このままじゃ「報道機関による調査報道」はレッドリストに載るかもだ。それに拍車をかけるのが、世間の報道機関不信。真実はblogやBBSやSNSにしかないと確信する人が増えていったら……。


別の仕事の片手間でなく職業生活の100%を取材やら編集やらにふりむけられる人が、何世代もかけて構築してきたコネクションや蓄積してきた専門知識を活用し、十分な取材を基に自ら反証も行ったうえで制作した記事は、信頼度の面で、どこのだれが書いたかわからないblogには優ります。いくらアサヒが信用できなくても、じゃあBBSの書きこみをアサヒ以上に信ずる根拠があるかつったら、たぶんない。
とはいえ。
上記謝罪文では誤報の原因として「思い込みや記事のチェック不足」「裏付け取材が不十分」と説明してました。きっちり裏をとって偏りのない視点で書いて、デスクだったり外部監修者だったりにしっかりチェックしてもらうのは、基本のキってやつです。が、すべての記事がそうかと問えば、そんなこたないのが実状。
しかも、事実を枉げて(本人には枉げた意識はないとしても)でもおのれの信念に基づく記事を書かれるのもすごーく困るが、そーゆー信念とか偏向とかぜんぜんなく、単に能力や知識や意欲や、なによりプロ意識に欠けることによる取材不足や理解不足の記事が増えてる気がするんですよね。
これはほんとに困った事態で、素人さんのblogが及ぶべくもない信頼度の高い記事を読むにはプロのジャーナリスト(従業員か外部スタッフか寄稿者かを問わず)をそろえた報道機関が必要なのだ、といえなくなってしまう。そして、信頼できる報道機関が絶滅し、ジャーナリストが生計を維持しにくくなって、調査報道が消え、単なる情報だけが氾濫する世界が到来したら、社会のあれこれについて正しい判断を下す根拠を探すのはかなり困難に。
既存の報道機関なしでも信頼度の高い記事が供給され続ける保証がないうちは、報道機関を否定するのでなく、取材や理解の足りない記事に建設的な批判を寄せることで報道機関の健全な発展を促すほうがいいんじゃないかなぁ。



わたしはジャーナリストじゃないけど、文章を書いて口を糊してる以上、今回の記事は自戒をこめて書きました。
で、週ベ9.29号を憶い出したんですけども。
「捕手と走者の激突の裁き、いまだに瞑想中」 <MLBで本塁クロスプレイに関する議論が「迷走」しているという記事の見出
その2ページ前には「若干20歳」 <「弱冠21歳」は誤用だがこれは誤変換
それより「日本唯一の野球週刊誌」としてまずかろう、なのは「四球を受け、両軍がホームベース付近でにらみ合う」 <フォアボールで乱闘してたら試合が終わらんでかんわ
(おまけ。10.13号より。
「当時としては大会史上初」 <タイムマシンにおねがい♪)
たとえスケジュールがタイトでも一字一句おろそかにせず校正しよう。自戒自戒。