許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

べき/べし(べき止め)

「本田の無回転シュートを期待するには、望むべくボールではないかもしれない」(4月23日付日刊スポーツ)
上記は、2014年FIFA W杯公式球についての新聞記事から(書きかけて忘れていました)。
「べくもない」は「べくもあらず」の「あらず」を「ない」に置き換えた連語です。「べくもあらず」は「《助動詞「べし」の打消し「べくあらず」に助詞「も」を挿入して強調したもの》1 …はずがない。…しそうにない〈中略〉2 …できそうもない」(goo辞書:デジタル大辞泉)。
つまり「望むべくもない」は「望めそうにない」を意味します。「このボールでは本田の無回転シュートを望むべくもない」としたかったのでしょうか。しかしそれでは、公式球を批判する印象が強く、原文とはいささかニュアンスが異なります。
あるいは「望むべきボール」の誤植? 「べし」の連体形は「べき」で、「べく」は連用形、「ボール」は体言ですから。
「べし」は「1 当然の意を表す。…して当然だ。…のはずだ〈中略〉2 適当・妥当の意を表す。…するのが適当だ。…するのがよい〈中略〉3 可能の意を表す。…できるはずだ。…できるだろう〈中略〉4 (終止形で)勧誘・命令の意を表す。…してはどうか。…せよ〈中略〉5 義務の意を表す。…しなければならない〈後略〉」(同)です。
「望んで当然のボール」「望むのが適当なボール」「望めるはずのボール」「望んでほしいボール」「望まなければならないボール」……どれも意味が通りません。「望むべきボール」でもなさそうです。
前後を読むと「(速いパスに適したものであり)回転をかけないシュートには向かないボールかもしれない」との文意なので、正しくは「望ましいボールではないかもしれない」とすべきです。


ところで、前述のとおり、「べき」は連体形です。文末に来る場合、助動詞「である」「だ」「です」をとる「○○べきだ」などの形がふつうです。助動詞を付けないなら終止形「べし」を用いて「○○べし」となるはずですが、「○○べき」といいきる形がめだちます。文を連体形で終わらせて余韻をもたせる「連体止め」という修辞法もあるものの、とりたてて効果をねらう必要もない箇所に使われていることがほとんどです。
1998年の第28回年金審議会全員懇談会議事録に下記の発言が記録されていました。
「『べき』で文章を止めて、べきであるか、べきでないか、わからない文章を並べる。これは現代の、若い世代の共通の文体です。今お話のありました『意見』で止める体言止めも現代の若い世代の文体です。これは日本語の作文教育の成果です。『べき』止めは多分『べきである』と読むようです。『意見』というのは『意見があった』という趣旨のようです」
16年後の今、仕事でお役所の文書を読むことが多いせいか、「べき止め」には頻繁にお目にかかります。すでに「若い世代」どころか全世代共通の表現なのかもしれません。




祝「怨み屋本舗EVIL HEART」連載開始の追記。
怨み屋姐さんの「しかるべく!」は、「しかるべく対処します」等の略と思われ(「しかり」連体形+「べし」連用形の副詞的用法)、話しことばとしては許容範囲です。
ただ、「evil」のカナ表記は「イーヴル」だろうやっぱ。「オースティン・パワーズ」のDr. Evilが「ドクター・エヴィル」じゃかっこつかん。