許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

つけまわし

先の臨時国会で、特定秘密保護法案の審議の陰に隠れていつの間にやら成立していた、いわゆる社会保障制度改革のプログラム法。社会保障制度改革の「全体像及び進め方を明らかにする」(持続可能な社会保障制度の確立を図るための改革の推進に関する法律第一条)法律のはずが、全体像というには枝葉末節が並びます。社会保障も安全保障と同じようにだいじなんですけどね。
で、この法案の国会審議の際に担当大臣が、社会保障の国民負担のつけを将来の世代に回す、といったことについて「つけまわす」とか「つけまわし」とか述べてまして、あーまた政治家がみょうちきりんなことばを世に広めて……と思ったら。


動詞「つけまわす」とは「しつこくあとを追いまわす」(goo辞書:デジタル大辞泉)の意。大半の辞書にはこの意味しか載ってません。他人につけを回すといいたいなら「つけ『を』回す」。名詞「つけまわし」は項目を立てない辞書が多数派。
でも、「つけまわす」や「つけまわし」に他人につけを回すの意味も認める辞書がけっこーあったんですよ。三国は動詞も名詞も、大辞林と新選は名詞を、学研現代新国語辞典は動詞を、他人につけを回すの意でも記載してました。
複数の辞書が採用したとなると、一定程度許容された段階とみてよいのでしょう。しかし。
『カネを積まれても使いたくない日本語』(内館牧子著)第一章の章題が「大らかな許容の果てに」でした。「ことばは時代によって変化するもの」だからといっておおらかに許容し続けたあげくが、国会答弁でも就職面接でも顧客対応でも「乱れた日本語」が使われる状況をもたらしたわけで。
親しい友人との気の置けない会話や私的なblogなどではら抜きことばやあいまいことばを用いても、時・場所・場合に応じて「美しい日本語」も使える。そうした人が少なくなってゆけば「美しい日本語」は絶滅してしまうかもしれません。
内館牧子氏をはじめたくさんの作家や学者、それをはるかにしのぐ数の市井の人々が「日本語の乱れ」について書くのは、重箱の隅をつついて悦に入りたいからじゃないのです。個々の指摘にうなずけない点があったとしても、「乱れた日本語」を使うこと自体はかまわないけど「美しい日本語」もちゃんと使いこなせるのを前提に、という切なる願いは理解してほしいなぁ。


来年も、ライターとしてはまっとうな日本語で文章を書く、校正者としては疑問のあることばづかいを指摘する、編集者としては原稿整理の段階で「日本語の乱れ」を除く、てなことを地道に行ってまいります。それと、多忙でないかぎりは、このblogも週イチ更新したいものです。
去年の12月31日23時59分にリセットしたカウンターが145,740件になってました。拙文をお読みくださいましてありがとうございます。今後も閲覧を賜りますれば幸甚に存じます。
みなさまよいお年を。