許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

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差し上げる/させていただく

「のちほどお電話を差し上げます」――企業等の電話応対マニュアルにはかならず記載されていそうなこのいいまわし、どうやら、昨今は好まれないようです。
「差し上げる」は「上から目線」だから顧客や取引先を相手に用いるのはもってのほか、ということらしいのですが……。


「差し上げる」は「一 持ちあげる。二 ささげる。三 献上する。〈中略〉五 他人のために労をとる」(新潮国語辞典新装改訂版)です。動作の方向としては「下から上」であり、「上から下」ではありません。同様に「下から上」の、「『与える』『やる』の謙譲語。献呈する。受け手を敬う気持ちをこめていう語」(Yahoo!辞書:大辞林)の意味もあります。
(敬語には、大きく分けて、尊敬語、謙譲語、叮嚀語があります。謙譲語とは「話し手が聞き手や話中の人に対して敬意を表すために、自分または自分の側に立つと思われるものや動作などをへりくだって言い表すもの」〈同〉です。謙譲語の知識がないと「自分の動作には『お』『ご』をつけてはいけない」などの誤解も生じます〈詳しくは過去の記事をご覧ください〉ので、まずは、敬語とは尊敬語だけを意味するのでないことを理解しましょう)
このように、「差し上げる」自体はいわゆる「上から目線」とは無関係のことばです。とはいえ、語のなかに「あげる」が含まれることから、忌避する人が出てきたのかもしれません。


「あげる」は、一義的には「低い所から高い方へ動かす」(Yahoo!辞書:大辞泉)という意味です。「下から上」ですね。
「『与える』『やる』を、その相手を敬っていう語」(同)の意でも同じでした。しかしこの場合、「本来、敬うべき対象に物をさし上げるの意で、『犬にえさをあげる』のような言い方はしなかった。現在では『与える・やる』の丁寧語として使う人が増えて」(同)おり、その結果、「上から下」へなにかを与えるニュアンスが一般的になったのではないでしょうか。
たとえば現在「先生にお歳暮をあげる」とはいいません。「先生にお歳暮を差し上げる」がふつうです(この「差し上げる」は上記のとおり謙譲語です)。
さらに、補助動詞「あげる」は「動詞の連用形に接続助詞『て』が付いた形に付いて、主体が動詞の表す行為を他者に対し恩恵として行う意を表す。『てやる』の丁寧な言い方」(同)です。「他者に対し恩恵として行う」ことは、現代日本では「上から目線」の「思い上がった」「おしつけがましい」所業とみられかねません。
となると、補助動詞「さしあげる」(「動詞の連用形に接続助詞『て』を添えた形に付いて、『…してあげる』の『あげる』よりも、その動作の相手へより深い敬意を込めていう語」〈同〉)も避けたほうがよい、というわけでしょう。
そのせいか、当節の電話応対マニュアルには「のちほどお電話させていただきます」を推奨するものもあるとのこと。ただし「させていただく」を忌避する人も少なくありません。
「のちほどお電話させていただきます」とはつまり、「あとで電話させてもらう」です。一見、相手の許可をあおいでいるようですが、実は許可を求めることばはないのです。要は、許可があろうとなかろうとさせてもらう、ということで、人によっては「許可したおぼえはない」と不快に感じます。
「のちほどお電話させていただいてもよろしいでしょうか?」ならば「あとで電話させてもらってもいい?」なので許可をあおいではいるものの、やや冗長なのが難です。


たしかに「お電話してさしあげます」は顧客に対して失礼な表現です。敬語表現を除くと「電話してやる」になるからです。が、「お電話を差し上げます」には「してやる」のニュアンスはなく、「電話する」を「受け手を敬う気持ちをこめて」敬語にしたものです。
(「(し)てさしあげる」は多く、尊敬する相手に直接いうよりも「(たとえば親が子に)先生にお茶をいれてさしあげなさい」などと間接的に敬意を示す場面で用いられます。尊敬する相手に直接いうのなら、「先生にお茶をいれてさしあげます」はふさわしくなく、「先生、お茶をおいれしましょう(この「おいれする」は謙譲語です)」「先生、お茶はいかがですか」などが適切です)
「差し上げる」。わたしなどは謙虚を美徳とする日本人らしい上品な敬語と感じますので、このまますたれてしまっては残念です。「(し)てさしあげます」と「差し上げます」の違いがいまいちど広く理解され、電話応対マニュアルから「お電話を差し上げます」がなくならないことを望みます。
ことばはいきものだから変化の流れに逆らうな、との考え方もあるでしょうが、絶滅危惧種の動植物や継承者難の伝統芸能を後世に残そうとする努力と同じく、美しい日本語が滅びないよう守ることもたいせつではないでしょうか。