許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

法に則って粛々と処理する

鞭声は粛々と夜河を過り――馬に鞭をくれる音もひっそりと夜に河を渡って、ということです。
「粛々」は「つつしみ敬うさま/静かにひっそりしたさま/ひきしまったさま/おごそかなさま」(広辞苑第二版補訂版)であり、「外圧があろうとも法に則って粛々と処理する」は意味が通りません。この文脈ではなにかを敬うこともないでしょうし、記者会見をするからにはひっそりと行うわけでもなさそうです。ひきしまった、厳か、でないのも同様です。
和英辞典を調べても訳語はsilently、solemnlyなのですが、現在では粛々を静か、厳かの意で使うほうが稀なようです。
これは、「周囲のものごとに左右されず原理原則のとおり実施する」といったニュアンスを一語で伝えられる副詞として「粛々と」を使うことが一般的になったからと考えます。たしかに、「淡々と」も「遵法」も上記のニュアンスを十全に表す言葉とはいえません。
言葉の第一の目的は意思疎通です。大多数の日本語話者が聞いて(読んで)同じ意味にとるのであれば、それはすでに許容されたといってよいのでしょう。



附記:後日、スポーツ新聞(2010年12月25日付日刊スポーツ「これだけは言っておきたい」)に「私は(略)粛々とではあるが(略)全国制覇を経験」という用法がありました。これは上記のニュアンスとも異なり、正直なところ意図をつかみかねます。「言葉はいきもの」との主張を否定するつもりはありませんが、世代間の意思疎通を困難にする言葉の変化は困りものです。