許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

明るくまじめな、細川さんが

読点の位置については以前もとりあげました。そのときには文意と無関係に読点を打つため意味が通じにくくなっているとしたのですが、それだけでもないようです。
先日、1980年の新聞記事が引用されていました。このなかの「明るくまじめな、細川さんがスターになっても郷里のことを忘れずにつくしてくれているから」(2010年2月14日付日刊スポーツより1980年8月25日付同紙紙面)という箇所について考えてみましょう。
この読点は、村民栄誉賞が与えられたのは当然である理由を説明する連文節が非常に長いために、読みやすさを目的に用いるものです。
この連文節の主語は「細川さん」、述語は「つくしてくれている」です。「明るくまじめな」は主語を修飾し、「スターになっても」と「郷里のことを忘れずに」は述語を修飾します。主述それぞれの節に分解すると「(明るくまじめな)細川さんが」「(スターになっても)(郷里のことを忘れずに)つくしてくれている」となりますから、「明るくまじめな細川さんが、スターに〜」のほうが読みやすいと思われます。
しかし近年、読点を修飾節と被修飾節のあいだに打つほうが主流になってきました。


4回転を跳ばないことを批判された、選手が反論した。
世界が注目した、謝罪会見は内容に乏しいものだった。
地元産の、苺と蜜柑を食べた。


最後の例では地元産なのは苺でしょうか蜜柑でしょうか。
「地元産の苺と、蜜柑を食べた」ならば蜜柑は地元産ではないのだろうと推測できます。「地元産の苺と蜜柑を(、)食べた」であればいずれも地元産でしょう。「地元産の、苺と蜜柑を食べた」の読点の用い方が従来のものなら苺も蜜柑も地元産と考えられますが、修飾節と被修飾節のあいだに打っているなら苺だけが地元産かもしれません。
文意を明確にするという目的からは外れる読点の用い方、「近年」といっても30年前には実例がありました。すでに許容され標準となっているのでしょうか。