許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

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今日はよく流氷が見られました

先日TVニュースの天気予報で、気象予報士が「今日はよく流氷が見られました」と言ったあと、アナウンサーがさりげなく「流氷が見えましたね」と言い直していました。


「見える」は、文語では「見ゆ」、「見る」+自発の助動詞「ゆ」です。口語では自発の助動詞として「れる/られる」を使いますが、「見る」「聞く」の場合は「見える」「聞こえる」という自発動詞を用いて使い分けます。
では、自発の「見える」と可能の「見られる」はどう使い分ければよいのでしょうか。
広辞苑第二版補訂版で「見える」(文語優先なので実際には「見ゆ」ですが)を引くと「1 見ることが出来る。自然に目にうつる。目に入る」とあります。おなじく「見ることができる」意味の可能の「見られる」との違いは、「自然に目に映る」です。
「知床で念願の流氷が見えた」でなく「知床で念願の流氷を見られた」とするほうが意図がよく伝わる理由はこれです。「念願の流氷」と言うからには流氷を見るのを目的に知床へ行ったのでしょう。自然に目に映ったわけではありません。
「今日は晴れたので流氷が見えた」と「今日は晴れたので流氷を見られた」も同様です。前者は「流氷が自然に目に映った」、後者は「見ようとした流氷を見ることができた」であり、ニュアンスが異なります。前者も流氷を見ようとしたかもしれませんがその意思は表現されていません。後者の場合は意思が表れています。


さて、掲題の「今日はよく流氷が見られました」です。
助動詞「れる/られる」には自発・可能・受身・尊敬の意味があります。ここでは四つのうちどの意味で用いたのでしょうか。
尊敬は、流氷を敬うという状況は考えにくいため、まず除かれます(省略された「見る」の主語に対する敬意であれば「流氷『を』見られました」となります)。
つぎに受身。「今日は」というのですから、「よく」はここでは「たびたび」でなく「十分に」の意です。つまり「人が流氷を十分に見た」ことが重要なのです。「流氷が見る行為の対象となった」ことが焦点ではないので、「られる」は受身でもありません。
すると自発または可能が残ります。既述のとおり、自発は「(○○しようとする意思にかかわりなく自然に)○○した」、可能は「(○○しようとして)○○できた」です。観光のニュースでなく天気予報において流氷の視認をとりあげるなら、流氷を見ようとしたかどうかは関係ありません。流氷が岸に接近した事実が文の主題であれば、この「られる」は自発のはずです。
現代日本語では自発の「見る」には自発の助動詞を接続するのでなく自発動詞「見える」を使います。そこでアナウンサーが「流氷が見えました」と言い直すことになったのです。


「自発」は、外国語を母語とする人に日本語を教える際に苦労する概念の一つだと聞きます。たしかに、「見える」「見られる」のどちらも使えるケースもあり、論理的に説明するのは難しそうです。
教える必要もなく日本語話者同士で話すなら「見える」でも「見られる」でもかまわないでしょうか? 自然に獲得した母語を論理的に理解するのは困難ではありますが、その努力は抛棄したくないものですね。


なお、前記の「除かれます」は、受身と解することもできるものの、「(除こうという意思がなくても)除くのが道理だ」ととるのが妥当と思われますので自発としたいところです。そして、この「思われます」は典型的な自発の例です。