許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

職責

週ベ9.2号「岡江昇三郎のWEEKLY COLUMN」冒頭。
「先週号で『銚子商高が真紅の大旗を初めて千葉にもたらした』と書いたら『野球専門誌の記者がこんな間違いを書くとは。猛省せよ!』というお叱りを多くの読者から頂戴してしまった。まったくの話、お恥ずかしい限りで、1967年に習志野高がすでに真紅の大旗を持ち帰っているのをすっかり忘れていたのです」
事実誤認の文章を出版してしまった場合、まず責めを負うべきは筆者そして編集者だが、校正者の責任も重い。校閲においては、原稿との突合や日本語の誤りの指摘だけでなく、事実確認も重要な職務だからだ。「真紅の大旗を初めて千葉にもたらした」とあったら、全国高等学校野球選手権大会でそれまでに千葉県代表が優勝したことはなかったのか確認せねばならない。いちいち確認するとはめんどうな、なんてことはない(webが普及した現在ではとりたててやっかいな作業でもなくなった)。それは校正者の職責の範囲である。


【職責】職務上の責任。(新潮国語辞典新装改訂版)
日本人は職人気質で職責を怠らず仕事を精確にこなすから「ものづくり大国」として繁栄し――てのが近年どうも疑わしくなってきた。それが明白になったのが数年前のトヨタの世界的リコール問題(不具合よりもその後の対処が「問題」だったようだけども)か。あれで「MADE IN JAPAN」ブランドにはっきりと瑕がつき、東京電力福島第一原子力発電所の事故処理経過が世界に報じられてブランド力の衰えが決定的になった気がする。現場のことはわからないので不可抗力な部分もあるかもだけど、あらゆる部署のすべての職員がちゃんと職責を自覚して仕事してたらあそこまでおおごとになったのかどうか。
高品質高機能の製品をこつこつ作っていればいい時代ではなくなり、市場のニーズをいちはやくとらえて商品を刷新し続けなければならない。しかも商品単体でなく、消費者に斬新な体験をもたらすサービスと一体で提供することが求められる。そんな、これまでの日本企業に不得手な分野で世界とわたりあわなきゃならないのに、「まじめにこつこつ」すらできなくなってしまったら、「日本を、取り戻す。」どころではない(「取り戻す」ってとこがすでにinnovativeじゃないわけだが)。
賃金を、労働者の権利と考えるか、労働の対価と定義するか。正当な評価って問題もからむので単純に結論は出せないものの、業務上当然要求される作業を怠った故の死傷事故とか(ほかにも、食品陳列棚を清潔に保つのはコンビニエンスストア店員の職責であろう)が頻発する昨今、一人一人がお金をもらった分ちゃんと仕事しないと、日本の競争力は弱まる一方なんじゃないかなぁ。