許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

06年からスタートしている

「ている」(接続助詞「て」+補助動詞「いる」*)は便利なことばです。「進行」「継続」「完了」「状態」「性質」「反復」「経験」などいろいろな意味を表すことができます。
ただし便利なだけに、近年、濫用されるきらいがあります。左記の文の「濫用される」も、大半の人が「濫用されている」とすると思われます。
*本blogは、さまざまな問題があることは承知しつつも学校文法準拠です。


「濫用されている」なら「濫用される」現状を表現するので誤りではないものの、「スタートしている」には疑問を覚えます。
たしかに「落ちている」など「落ちる」という動作の結果が存続した状態を示す用法はあります。「落ちる」という動作そのものでなく、落ちた結果どうなったかに焦点を当てる場合は、「ごみが落ちた」でなく「ごみが落ちている」となるのです。
しかし、「スタートする」という動作の結果は、「スタートしている」状態なのでしょうか?
「落ちた」ごみは拾われたり風に吹かれたりしなければそのまま「落ちている」ものですが、「スタートした」ランナーは「走る」か「止まる」か、「スタートした」制度は「存続する」か「廃止される」かのどちらかです。
動作の結果が続く「落ちる」とは異なり、「スタートする」という動作は次の瞬間には「走る」という動作に変わっています(ちなみにこの「ています」は完了)。ランナーのシューズから落ちた土は3秒後にも「落ちている」状態でしょうが、3秒前にスタートしたランナーは(アクシデントがなければ)「走っている」状態であって「スタートしている」状態ではありません。
強弁すれば「今まさにスタートしている」ならいえなくもありませんが、これも「今まさにスタートした」がふつうです。
しかも、よく目に/耳にする「06年からスタートしている」といった表現は、まずまちがいなく「06年にスタートした」の意味です(そうでないものがあればご指摘いただければ幸甚に存じます)。
「06年にスタートして現在も続いている」ことを強調したいのだとしても、「スタートする」と「存続する」はまったく別の意味ですから、「スタートする」に「ている」をつけても「存続する」にはなりません。そもそも、「06年にスタートしその後廃止された」とでもしないかぎり、読者/視聴者は現存するものとうけとります。
ほかにも「発足する」「発売する」「開設する」(「開設しています」の誤用については過去の記事をご覧ください)など、「ている」が使えない動詞は多いのでご注意を。



なお、「ている」に限らず、同じ表現のくりかえしには別の難もあります。
たとえば、英語は時制を論理的にとらえる言語なので過去のことは過去形で表現しますが、日本語はそうではありません。
芥川龍之介羅生門」の冒頭が以下のようだったらどうでしょう。


ある日の暮方の事であった。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいなかった。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっていた。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものであった。それが、この男のほかには誰もいなかった。


平安時代のことだからといってすべて過去形にしたら、ずいぶんつまらない文章になってしまいます。


ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。


これなら、情景がいきいきと目に浮かぶ名文です。「である」「だ」「する」「ている」「た」「ていた」等々は、意味や時制だけが理由で使い分けられるわけではありません。
日本語の文章において文末表現は非常に重要です。「ている/ています」を連発していないか、推敲の際に確認することをお勧めします。