許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

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わたしたちが亡くなったらどうすればよいでしょう

「亡くなる」は「死ぬ」の同義語ですが、現代語では尊敬語として使われるのが一般的でした。源氏物語では「父の大納言は亡くなりて」と使っていても、現代で身内の不幸に「父が亡くなりました」とは言いにくく、「父を亡くしました」と表現するのがふつうだったのです。
ただし「父を亡くしました」の隠れた主語は「わたしが」であり、たとえば父の友人に対して父が死んだと伝える場合にはそぐわない言い方です。これを「父が死にました」と言うと、ぞんざいに感じられますし、「父」は「自分」の身内であるものの「父の友人」の友人でもあるわけですから、父の友人に対する敬意に欠ける表現ともなりかねません。「父が身罷りました」や「父が逝きました」では大時代な印象ですから、この場合はやはり「父が亡くなりました」とすることが多かったのではないでしょうか。
昨今では、「父が死にました」はもちろん、「父を亡くしました」もあまり用いられず、「父が亡くなりました」が大半でしょう。ペットを家族の一員と考える人が増えたことから、「(愛猫の)タマが亡くなりました」などもあたりまえに使われています。動物の死に「亡くなる」を使うことに違和感を覚える人も少なくありませんが、和語本来は「亡くなる」も「無くなる」も同じ「なくなる」ですから、誤りとは言いきれません。
それでも、自分の死について「わたしが亡くなる」とは、現在大多数が使う表現なのでしょうか。単に事実を述べるなら「わたしが死ぬ」で十分ですし、「死ぬ」を忌むべき言葉として婉曲に表現するなら尊敬語ととられる虞の少ない「逝く」があります。「ペットが亡くなる」と同様、誤用と断じることはできないとは言え、あらゆる言葉をぼかす今日の日本語使用実態の一環かと考えてしまいます。