許容される日本語

日々変化する日本語。すでに許容されたのか、まだ誤用と扱うべきなのか。徒然なるままに考えます。

*当blogより引用する際は出典を明記してください。

緊迫さ

接尾語「さ」は、「1 形容詞・形容動詞の語幹、一部の助動詞の語幹に準じるものに付いて名詞をつくり、…の状態であること、…の程度であること、…の性質であることの意を表す」(Yahoo!辞書:大辞泉)ものです。たとえば、形容詞「よい」の語幹「よ」につけてよい状態/性質を表す名詞「よさ」を、形容動詞「あざやかだ」の語幹「あざやか」につけてあざやかな状態を表す名詞「あざやかさ」を、動詞「会う」連用形+助動詞「たい」の語幹に準ずる「会いた」につけて会いたい程度を表す名詞「会いたさ」をつくります。
この「さ」は、名詞でないものを名詞にする機能をもつ便利なことばです。この利便性ゆえに年々使用範囲が広がっているようです。


以前「世界観」の記事で「○○感」の濫用について少し触れましたが、逆に、「○○感」とすべきところを「○○さ」とするケースも増えました。「緊迫」は「形容詞・形容動詞の語幹、一部の助動詞の語幹に準じるもの」ではありませんから、「緊迫した感じ」をひとつの名詞にするなら本来は「緊迫感」です。これを「緊迫さ」にした文章を新聞などでもみかけます。
「先行きが不透明である感じ」も、従来ならば「先行きの不透明感」でしたが、昨今では「先行きの不透明さ」のほうが多いかもしれません。形容動詞「透明だ」の語幹「透明」+「さ」で「透明さ」という名詞はつくれます。しかし漢語である接頭語「不」がつくと、やはり漢語の「透明」(形容動詞「透明だ」の語幹というより名詞「透明」)と「感」を続けて「不透明感」とするのがふつうでした。
尊敬語をつくるとき、尊敬する相手の動作が和語の場合は「お○○になる」、漢語の場合は「ご○○になる」です。和語には和語の「お」、漢語には漢語の「ご(御)」を組み合わせるとしっくりきます。同様に、和語の形容詞・形容動詞を名詞にする場合は「さ」、漢語の形容動詞を名詞にする場合は「感」「性」などが用いられてきましたが、現代では和語か漢語かにこだわらず、シンプルに「○○さ」を使うのが一般的でしょうか。


便利でシンプル、そうしたものは広く用いられます。「シンプル」のようなカナの外来語につける「シンプルさ」などはすっかり許容されました。
また、名詞でないものを名詞にする機能を拡張したと思われる用法もあります。たとえば「洗練さ」。「洗練」は名詞で形容詞ではありませんが、「洗練された」は英語の形容詞‘sophisticated’の訳語として使われます。この「洗練された」を「名詞化した」のかもしれない「洗練さ」は、あかぬけさせることを意味する名詞「洗練」とは異なり、「あかぬけ(させられ)た程度」を表すらしいのです。「会いたさ」が会いたい程度を表すように。
「○○さ」の広がりに注目してみてもおもしろそうです。